「オスのケンシロウ16歳に特製サツマイモケーキ贈られる」
朝の通勤電車でぼんやりと宙を見つめていたときに社内広告に流れたニュースだ。
ケンシロウとはマンドリルであるとテロップに書いてある。音声は流れないので、そのわずかなテロップの記載と、マンドリルがもぞもぞと動いている様子しか分からない。
マンドリルのケンシロウは16歳の誕生日を迎え、お祝いとして特製のサツマイモケーキを動物園の飼育員にプレゼントされたのだろう。
特製のサツマイモケーキってどんなものなんだろうと想像する。特製という言葉にはマンドリルが美味しく食べられるように加工したものという意味もあるだろう。
また、ケンシロウがマンドリルとして立派に16歳まで生き抜き、歳を重ねたことを祝した特別な想いの込もったケーキという意味合いもあるのだと思う。
誕生日に特製ケーキを食べ、動物園の飼育員や客に祝ってもらったケンシロウは、翌日からそのケーキを心待ちにしないんだろうか。昨日は食べられた、うす甘い、もそもそとしているけど優しい味のケーキが今日は無い。翌日も翌々日も無い。あれはなんだったんだ、なぜ今日は食べられないんだと絶望しないんだろうか。
人間だったら自分の食べたいときにケーキが買える。でも動物園の檻に入れられたケンシロウは当然ケーキを買いにショッピングへなど行くことはできず、誕生日だけの特製ケーキだとしたら364日後まで食べられない。さらに悪いことに次にいつ食べられるのかもケンシロウには知らされない。
一度知ってしまった快楽の喪失に、わたしだったら耐えられるだろうか。
世界でいちばん美味しいと思っている千疋屋の白桃パフェだって白桃の時期しか食べられないけれど、また来年があると分かっているから平気な顔をして生きているだけだ。今後いつ食べられるか不明ですと言われたら正気を保てるか分からない。
ケンシロウは愛されて祝われたはずなのに、特製のサツマイモケーキのために今後のマンドリル人生は絶望を味わって生きるのではないか。
楽しいことや美味しいことや気持ちのいいことは、また次も同じような出来事に巡り合えると実感できないと本当に幸せだと感じられないのではと思う。
恋愛だって、好き合ってからだをくっつけて笑っていたとしても「明日には相手に嫌われてしまうかもしれない」「彼氏の会社に可愛すぎる新入社員が入社して彼氏といい感じになってしまうかもしれない」などと思ってしまったらもうそこにあるのは100%の幸せだけではない。
心の隅には真っ暗な部分があり、ちょっとしたことで膨らんでこようとする。幸せだからこそ未来の幸せも確定しているのだと思わないと耐えられないから、約束したり婚約したりするんだろうなと思う。
わたしは旅行に行けば「また来よう」と言い、千疋屋の白桃パフェを食べれば「来年も食べよう」とつぶやき、親友に会えば「次はあそこに一緒に行こう」と誘う。幸福との次の再会を確かめて生きている。