女にとって、犯行予告が出てることは気をつけるかどうかの判断基準にはならない。毎日毎日、365日気をつけている。今日も気をつけなきゃ、と改めて気を引き締めるだけだ。
夜半にふらっと散歩やコンビニへ、なんてことはいつだってできない。夜道は歩かない。そもそも夜遅くならないように予定を組んでいる。やむなく暗い道を通るときは走る。走りながら後ろを振り向きつつ周囲を警戒する。予期せぬ暴力に遭遇しないよう最大限注意を払っている。それでも全て回避できるかは文字通り死ぬまで分からない。
女に生まれただけで行動が制限され、人影に怯え、理不尽に憤るエネルギーを使うことになる。力では犯罪者に勝つことができないこの世界を呪う。
「進撃の巨人」でいえば調査兵団でもないのに丸腰で壁の外に放り出されるようなものだ。どこから知能を無くした巨人が現れるか予想できない。かつては人であったかもしれないが既に人ではないものが存在している世界で生きなければいけない。
やはり壁を築くしかないのだろうか。以前、通勤電車の車両を性別で分けて欲しいとブログに書いたが、安心して生活するためには居住地区を分けて壁で隔てるしか策はないのではないかと思ってしまう。フリーで良いと考える人のための通常の居住地区、夫婦やカップルのための居住地区、女だけの居住地区。そんな国ってないんだろうか。
先日読んだ氷室冴子著の「新版 いっぱしの女」(ちくま文庫)にこんな一節があった。
親からもらった名をもつ私。仕事上の名をもつ私。こうありたいと願う私。こうでありえた私。あらゆる属性の中から、ただひとつ〝女〟の部分を強制的にひきだされ、そこに照準をあわせた暗闇からの悪意に、私はどう抗議できるのか。対抗できるのか。 私が私であるために受ける不利益は甘受できる。けれど、宿命的に与えられた性に限定して向けられる無記名の悪意は、その無記名性ゆえに、私を激しく傷つける。恐慌におとしいれる。
私が私であるからという理由ではない、ただただ女であるから晒される恐怖に対して、全ての女が傷ついている。